‘sickness behavior’は、うつ病を生活習慣病としてとらえ、その基底に炎症・免疫機構の障害を想定する立場にとっては、中核的な概念である。
平時の行動パターンとは異なる、病時期の行動パターンのことを‘sickness behavior’と呼ぶと考えていい。具体的には、「いつもより活気がない」、「いつもより動作が鈍い」、「いつもより食べない」、「いつもより体重が減った」、「いつもより体温が高い」、「いつもより長く眠る」などである。「ふだんのように飼い主に駆け寄ってはこない」「あれこれ探し回ることをしない」、「ひどく痛がる」、「ひどくおびえる」などもこれに属する。固い用語を使えば、無気力、動作緩慢、食欲不振、体重減少、体温上昇、睡眠時間の延長、社会行動の減少、探索行動の減少、疾痛感受性の増大、過度の臆病さなどと言える。
ここで大切なことは、その動物の罹患しているものが、感染であれ、外傷であれ、対処行動としてはどれも似たようなパターンを呈するということである。だからこそ、‘sickness behavior’という概括的な用語が要請されてきたのである。
実際その後の研究で、‘sickness behavior’の病態生理において、病因によらない非特異的な免疫応答があることが確認されている。すなわち、後述のように、マクロファージ、樹状細胞、肥満細胞から放出されるサイトカインがトリガーとなって脳に作用して、病時特有の行動をもたらすのである。
この‘sickness behavior’には、現在のところ、定訳はない。「シックネス・ビヘイビア」とカタカナ表記している文献もある。「病気の際の一時的な」とか「病気の時に限っての」といった含意がある。概念としての‘sickness behavior’の内実も、平時とは異なる、病時期の特殊な行動パターンであり、健康が回復すれば、やがては平時行動にもどるはずの一時的な態勢を意味している。以上を考慮して、ここでは暫定的に「病時行動」という訳語を使う。
病時行動に適応上の意義があることが指摘されている。動物の病時期の行動パターンを単純な衰弱として理解すべきではなく、そこに積極的な側面がある。そこに何らかの適応上の意義がある場合が多い。
病時行動の様々な行動特徴にも、適応上の合目的性がある。すなわち、動こうとしなくなること、睡眠が長く、覚醒が短くなること、探し回ることをしないこと、食べようとしなくなることなどである。Hartによればそれは、生存の危機に瀕した野生動物が、適応のために採る行動戦略であり、進化の過程を経て高度に組織化されてきたのだという。
感染や外傷によって、細菌ないしウィルスに感染すると、身体資源を総動員して、炎症過程を促進させ、病因を除去しようとする。その目的のために適う行動こそ、病時行動なのだとHartは考えた。
不活発になると、その分、食糧調達行動も減る。縄張りを守ることもできなくなる。交尾もしないし、子どもの世話もしない。縄張り破られたら、食糧は略奪される。不活発な状態が続けば寄生虫感染のリスクが上がるうえ、捕食者に簡単に捕えられてしまう。
病時行動の最大の特徴は、不活発つまり「元気がない」「動作がのろい」という点にある。不活発には、代謝資源の節約になるというメリットがあるが、それは食糧探索という面からすれば、カロリー摂取減少というデメリットにつながる。一方で、栄養摂取の減少には、デメリットだけでなく、メリットもある。病原菌の成長・複製に必要な栄養を制限するので、病原菌の増殖を抑えることができる。活動量を減らし、消化吸収量を減らせばその分だけ代謝に伴うフリー・ラジカルの産生を抑えることもできる。病時行動が他の急性炎症性反応と同時に発生すれば発熱活性酸素種の産生、活性窒素種の産生などをもたらし、その結果エネルギーの消耗と組織損傷をもたらすといったデメリットも発生する。
弱肉強食の野生動物の世界では、「弱っている」というメッセージを発することは、個体存亡の危機を招きかねない。そのため、病時行動をあえて隠す必要もある。その好例と思われるのが、「病気の鳥症候群」(Sick bird syndrome)と呼ばれるものである。これは、野鳥が体調不良を隠し続けて、もはや回復不能になるまでそれを続けて、ついに力尽きて死ぬというものである。
チーターに狙われている動物たちは、狙われていると気づけば体調不良を見せることなく素早く行動しなければならない。チーターは、獲物となる動物の大群に対して見つからないように注意深く近づいた後、ある瞬間に突然、あえて自分の姿をさらす。すると、その瞬間、大群はいっせいになだれを打つように逃げ始める。この有事に際しての大群の動きの中にあって、動作が緩慢で、群れの逃走に乗り遅れている動物がいると目立つ。チーターはそのような個体をピンポイントで狙って、得意の疾走によってたちまち仕留めてしまう。平時にあっては、体調不良で動作の鈍い動物も、大群の中にいれば目立たない。他の動物ものんびりと草を食べたりしているからである。しかし、有事の際つまり、捕食者が突然近づいてきたような場合、健康な他の動物たちが一斉に逃走を開始し始めると、一頭だけそれについていけない事実が露呈してしまう。そうならないためには、有事にあっては病時行動をあえてとらず、元気なふりをするしかない。
少産少死戦略を選択している種もあれば、多産多死戦略を選択している種もある。前者は、K戦略といわれ、後者は同じくr戦略といわれる。
K戦略を採っている種の場合、わずか一頭の子の損失も重大な損失となるので、大切に子育てを行う。結果として、病時行動を採っている個体にも、ケアと保護のための努力を払う。その一方で、げっ歯類のようにr戦略を採る場合は、病気によって一匹個体が死んでも、その埋め合わせをする個体は次々に生まれる。だから、病気になって、動作が鈍くなった個体を保護する意義は乏しいから、ここでは病時行動には適応上の意義は少ないことになる。
総じていえば、病時行動は、細菌やウイルスのような微小侵略者に対しては抵抗力を増強させるが、肉食鳥類肉食哺乳類のような大型の捕食者に対しては、むしろ弱点を露呈させてしまう。
家畜化された動物の場合、病時行動には圧倒的な有利さがあるため、行動の表現がオーバーになる場合もあるかも知れない。
「詐病は、K戦略を採る動物にとって、短期的には利益があるがヒトの場合と同様にそのような行動はそれなりに察知されてしまうだろう」との獣医学者の見解もある。動物たちだって観察力はあり、詐病でごまかそうとすればかえって冷たい視線を浴びるということであろう。
気分の障害から心身の疲弊へ
従来、本邦では、うつ病の基本的症状として気分・感情に関わる諸症状が重視されてきた。抑うつ気分、非哀感不安・焦燥、興味関心の喪失、さらには罪責念慮等である。それらと比べれば、病時行動モデルにおいては、より身体的な症状、つまり、倦怠感、易疲労感、動作緩慢、無気力、気分不快、食欲不振、睡眠時間延長等に焦点をあてることになる。日本語に訳しにくい英語に“malaise”(気分のすぐれない状態)や“lethargy”(だるくて元気がない状態)というものがある。これらは、精神医学の文献にはあまり使われない用語だが病時行動に関する文献には頻出する。これらの、どちらかといえば身体的な症状の集合体としてうつ病をとらえ、抑うつ気分や非哀感はそれらに付随する症状にすぎないと見なす。すなわち、うつ病を心身疲弊を核とした全身疲労性疾患として理解しようとすることになる。
実際 うつ病の身体症状は、気分の障害ないしメランコリー思考といった狭義の精神症状からの安易な了解を許さないものが多い。むしろ、心身の疲労を軸に考えたほうが理解しやすいはずである。それに、従来、指摘されていた気分の日内変動などは、概日リズム障害、自律神経リズムの障害、ひいてはHPAアクシスの機能不全、それらと同期する炎症タンパクのネットワークの障害として再考するほうが適切であろう。
病時行動をモデルとしてうつ病をとらえようとする論者の代表がMichael Maesである。彼は、1993年に急性炎症において認められる高ハプトグロビン血症がうつ病においても認められることを報告、その際に、ハプトグロビンの濃度と正の相関を呈したのが、食欲低下、睡眠障害、精神運動抑制であった。これらの諸症状は、動物の病時行動においても認められることから、ホモ・サピエンスのうつ病と動物の病時行動とは、炎症反応系の作動において共通の状態をもつのではないかと考えるようになった。
当時すでに動物の病時行動については、そこにIL-1、 TNF一α、IL-6などの炎症性サイトカインの関与があることはわかっていた。同様に、ホモ・サピエンスのうつ病においても炎症性反応系の関与が研究されるようになった。その結果、IL-1、 TNF- a、IL-6などの炎症性サイトカインに加えて、(]-reactiveprotein(CRP)5)、ハプトグロビンなどの急性期タンパク質の関与も示されるようになった。
食欲不振、体重減少、身体活動の減少、疲労感、眠気、集中力の低下などのうつ病に認められる諸症状は、病時行動にも認められる。興味・関心の喪失もうつ病にとって重要な症状だが動物も病時にあっては同様の行動をとる。飼い主の顔を見ても尻尾を振って駆け寄ってこない犬、普段熱心なはずの毛づくろいをあまりしなくなる猫などである。うつ病にあっては心気的訴えが増えるものだが、動物においても痛覚過敏(hyperalgesia)が認められる。熱発については、これをうつ病の症状と見なすことは少なかったが、実際には、うつ病において、体温の日内変動の不安定さを含む低グレード熱発を支持する所見はある。一方で、自殺念慮、罪責感、無価値感などは、うつ病における実存的な心理状態を示唆するものとして、動物の病時行動には等価の症状はないと考えられる。ただ、この点は、「うつ病の‘Malaise theory’」の提唱者(Charlteni)は、以下のように説明する。まず第一に、病時行動の中核症状として“malaise”(気分のすぐれない状態)があって、憂うつな気分、無価値感、罪責感 自殺念慮などは、‘malaise’がもたらした、あくまでも二次的な結果であるという。すなわち、ホモ・サピエンスは、病時行動を呈するべき身体状態にあって、それにもかかわらず、それを病気として理解することができない場合、集中力、興味関心の低下、作業効率の低下などを自分自身の不甲斐なさに帰し、そこから罪責感や無価値感が生じると理解するのである。
うつ病を獣医学における病時行動をモデルにしてとらえ返そうとする見方は、一つの疑問から発している。それは、ホモ・サピエンスにおいて「うつ病」という名で呼ばれる行動表現型が、ホモ・サピエンス以外の動物においてはどのような行動として表れているだろうかという問いである。この立場は、当然ながら、うつ病の基底にあるはずの生物学的病態をホモ・サピエンスだけに認められる事態であるとは見なさない。むしろ、生物学的事態としては、他の動物と共通しているが、その行動表現としては他の動物と共有するものもあればホモ・サピエンス独自のものもあると考える。生物学的に第一義なのは、前者であって、後者ではない。
うつ病観のパラダイム転換である。
病時行動としてうつ病を見る立場は、従来、精神病理学において軽視されてきた。症状を重視し、逆に、重視されてきた症状を、むしろ、副次的なものと見なす。軽視されてきた症状とは、倦怠感、易疲労感、動作緩慢、無気力、気分不快、食欲不振、睡眠時間延長等であり、重視されてきた症状とは、抑うつ気分、悲哀感、罪業感、希死念慮などである。罪責念慮、希死念慮については、それらがいかに実存的・人間学的な価値があるとしても、病態理解にとっては何ら本質的ではない。
Maes M, Berk M, Goehler L et al:Depression and sickness behavior are Janus-faced responses to shared inflammatory pathways. BMC Medicine
10:66,2012.http://www.biomedcentral.com/1741-7015/10/66.